はっぴいえんどが出演した「若いこだま」

ひさしぶりに『はっぴいえんどBOX』(2004年3月31日発売)を開いた。CD-EXTRAとして全日本フォークジャンボリーにおいてはっぴいえんどがバックバンドをつとめた岡林信康の映像が収録されていたのは覚えていたが、他のディスクにもCD-EXTRAとして様々なコンテンツが収録されていたことはすっかり失念していた。

そのひとつが1971年12月3日にNHKラジオ第一で放送された「若いこだま」をエアチェックした音源である。この音源ははっぴいえんどファンとして知られる俳優の佐野史郎から提供されたものだ。

『風街ろまん』の発売日が1971年11月20日なので、「若いこだま」出演は『風街ろまん』発売から約2週間しか経っていないことになる。

現在読むことのできる『風街ろまん』に対する評論のほとんどは、はっぴいえんどが伝説のバンドと呼ばれるようになってから、『風街ろまん』が名盤と呼ばれるようになってから書かれたものである。

そういう意味で伝説のバンドの名盤ではない『風街ろまん』に対する渡辺武信の分析は非常に興味深いものだった。

YouTubeにアップロードしても怒られないのかもしれないが著作権的に問題になりそうなので躊躇した。代わりに17分2秒の音源を文字起こしした。文字起こしなら著作権の問題が完全に解消されるわけではないが大目に見てもらえるだろう(もし怒られたらこの記事は削除します)。

以下の文字起こしは、話を理解しやすくなるように話題ごとに見出しをつけた。

『風街ろまん』とは何か?

吉見佑子:『風街ろまん』っていうのはどういうことなんですか?松本さん。松本さんにとってどういう……なにこだわってるのかしら?

松本隆:結局ね、僕がこだわっているのは、僕が幼年時代を過ごしたね、街が今の青山にあって、それが今もうあれなんですね、ビルディングとかね、僕の生まれて育った家なんかがもう道路の下になって、あれオリンピック道路っていうんですけど。だからそういう、なんて言ったかな、都市にね、東京っていう都市に僕の幼年時代は塗り込められたような気がしてね、アスファルトとかコンクリートに。それで奪、なんていうのかな、取られちゃったような気がしてね。そういうところで、そんなら僕らがそういう幼年時代を過ごした風景みたいのをね、どういうふうに取り返すかっていうことをね。それが風街っていう言い方したんですね。

吉見佑子:ふーん。はぁ、そうですか。

松本隆:で、あのジャケットを見てもらえればわかるけど、都電の絵が描いてあって。で今都電が走っているところっていうのはね、昔青山にも走ってたわけですね、それはもうなくなっちゃって、そういうものってちょっとさびしいでしょ。

吉見佑子:なんとなく聞いてるとさ、胎内回帰みたいな気がしないでもないんだけれども、そのへんはどうですか?なんか非常にセンチメンタリズム的なものを……。

松本隆:いや、閉じこもっちゃうっていうんじゃなくてね。却って僕らがそこから引っ張り出してきて……。

吉見佑子:なぜ引っ張り出すの?

松本隆:うーん。なんて言ったらいいのかな。果てしなく明日があるからじゃないですかね。

一同:笑

渡辺武信さんに会いたくないのはなぜ?

吉見佑子:そういうちょっと訳のわからないような答えが出ましたところでですね。詩人の渡辺武信さんをお迎えするんですけれども。その前にですね、なぜ詩人の渡辺さんをお迎えしたかということについて松本さん。

松本隆:僕が電話でね、今度ゲストで渡辺さんを呼ぶけれどどうしますかって言われたときにね、どうせ好きな詩人っていうのはね、渡辺武信さんと清岡卓行さんと、ちょっともういないけど宮沢賢治さんなんですね。

吉見佑子:あぁー、そうですか。

松本隆:それでひとり死んじゃったからもう会わなくて済むんだけど、あとの2人にもなんとかして生きている間は会わないようにしようと思ってたんですけど、今日会っちゃったわけです。

吉見佑子:それでまあ、お話……で、渡辺さんっていうのはどうして会いたくないわけですか?もちろんすごい人、詩だからだと思うんですけれども。

松本隆:そうですね。なんていうのかな。ちょっとファン心理ですね、きっと。憧れみたいなものがあって……。

吉見佑子:で、渡辺さんの詩のどこに憧れたんですか?

松本隆:結局出てくる言葉なんかがね、ちょっと信じられないほど僕の好きな言葉があったり……んと、好きなんですよ。

「やさしさ」と「弱々しさ」

吉見佑子:そういうところで、渡辺さんこんばんは。

渡辺武信:こんばんは。

吉見佑子:ちょっとお話をしていただきたいと思うんですけれども。渡辺さんはどうですか?はっぴいえんどをお聞きになって。初めてだそうですけど。

渡辺武信:僕はあんまりだいたいはっぴいえんどに限らずロックを聞いてないんですけれども。今度聞いてみての感想ということなんだけれど、これはまあ当然一口では言えないんだけど、やはりこう非常にこうエネルギッシュな感じではなくて、ロックという僕らが持っている普通のイメージとは違って、外から見ているイメージと、非常にこうやさしさみたいなものがある。それで、そのやさしさというのは実は非難する意味ではないんだけど弱々しさにつながるものであって、その弱々しさっていうのは一体なんだろうと思うんですね。その弱々しさというのは僕はやっぱり惹かれるわけなんですけど。つまり空威張りしてエネルギッシュであるということの反対のなんかナイーブな弱々しさみたいなもの。これはまぁ、歌の題名ではないけれども、非常に抱きしめたいような弱々しさでもあって、たぶん僕の中にもある弱々しさであると思うんですよね。

吉見佑子:どうですか?

松本隆:ええと、結局渡辺さんが仰ったようにね、やさしさみたいなものにすごくこだわっていて。で、僕らの前にロックがいてね、ロックやるやつはいっぱいいて、そういうやつらが結局暴力的だとかね、いわゆる音の暴力みたいなのにこだわってるでしょ。そういうのに反発したり、それから僕の中にあるやさしさみたいなのをね、もっとこだわり続けたいよね。そういうことからこういう『風街ろまん』みたいなのができたんです。

「保護してくれる都会に対する憧れ」

吉見佑子:彼の弱々しさとかやさしさについてどう思いますか?

渡辺武信:非常に都会のことがよく出てくるわけだけれども、都会というのもつまり高速道路ができたりそれからGNPが世界一になる前の都会であって、人間を保護してくれるような都会っていうようなものに対する憧れ。つまり幼年期の記憶もあるかもしれないけども、今現在あるものとしては都会そのものではなくて、その路地とか舗道とかそういうものに対する執着というのは、やはりこれは非常に弱いんですね。環境に保護されたいということ、環境に自分の感情を纏らせなければ生きていけない。しかしそれはやっぱり自然ではなくて、やはり人間を保護してくれる大袈裟に言えば文化みたいなものに対する憧れであって、それが非常に日常的な感覚からうまく出ているから、これは当然誰でも持っているものだと思うんですね。それはつまり今の都会というのが逆に言うと人間を保護しなくて、むしろ非常に敵対的な環境になっているということ。つまり人間に対して都会というものが本当は保護してくれるはずのものなのに、非常に敵対的になっているという。そういうことに対する静かな抗議の声みたいなもので。弱々しいけれども誰にでも訴えるようなところがあるんじゃないでしょうか。弱々しいというのは、だからさっきから言っているように非難の意味ではないわけです。ただ弱々しいということに対して問題がないわけではないですよね。ある人から言わせればこういう歌ではしょうがないという疑念は当然出てくるわけで、僕の中にももう本当に弱々しすぎるというような感じも4分の1ぐらいないではないけれども。もし誰かがこういう弱々しさみたいなものを、いわゆるエネルギッシュを第一とするという立場から非難するとすれば、僕は当然それを弁護する側にまわるというような感じですね。

吉見佑子:でね。松本さんは渡辺さんのなかにやっぱり違った弱さみたいなものを感じたんですか?そうじゃない?

松本隆:ええとね、渡辺さんの詩のなかでね、なんだっけ、街路を駆け抜けると風が頬のあたりでやさしく、世界のやさしさを発見するのだ。ああいう意味のやさしさみたいなのはね、僕なりに一生懸命追いかけているんだけど。

渡辺武信:だからそれは僕の書いたものに対して直接関係はないかもしれないけど、やはり本当の街というですね、本当の都会っていうものね、で、歴史上そんな街が本当にあったのかどうかわからないけれども、理想化された人間の住んでいる環境、街というものに対する憧れじゃないですか。だから、だけれどもそれは田舎ではないので材料としては現実にある街の中から、それをきっかけにして幻の街みたいなものを作り出さなきゃいけないから、そのきっかけとして使われるものがいわゆる今都会を作っているものじゃなくて昔の都会の残像ね、つまりそれで同時になんていうかなエネルギッシュなものじゃなくてむしろ昔のものになってしまうのは、彼自身が子供の頃っていうのは親に保護されてるでしょ、だからそういう記憶と重なりあるわけよ。で、その頃たしかに都会もよかったけども、大人にとってはその時代はその時代で都会の厳しさがあったかもしれないけど、現在彼が昔の街のイメージみたいなものを思い出すと現実の街から、それからもうひとつはそれが同時に彼の少年期の記憶につながっていたとすれば、少年期というものがそもそも保護されているものだからね。だけど本当はそれはだからそういう幻の街みたいなものが大袈裟にいうとそういうものを作ろうと思ってさ、歌ではそういうものは作れないけども、作ろうと思えば今のこの街全部ひっくり返さなければいけないというひとつの大きなエネルギーに変わるべきもので、だけど歌ではそういうものを直接訴えようとすればさ、今のいわゆるエネルギッシュな歌になってしまって空騒ぎになってしまうから、むしろこういう弱々しさのほうが本当はなんていうか大袈裟に言えばエネルギッシュな声よりも革命的なのだというふうにいえるかもしれない。

吉見佑子:どうですか?

松本隆:その通りです。

吉見佑子:意見が一致しましたところで「花いちもんめ」

語尾「です」について

吉見佑子:渡辺さんから彼に何かあれば。

渡辺武信:僕の方から逆に少し聞いてみたいと思うのは、今までの曲でもそうだけど「なんとかなんです」っていうそういう終わり方の語尾の言葉が非常に多いし、それがふたつの面があって、ひとつは僕の感じではたぶんロックのリズムに乗せた時にその語尾の「です」っていう強さがリフレインになったときに非常に効果的に生かせてると思うんですけれども、これは歌う人に聞いてみたいわけです。それからもうひとつは「です」っていう言葉の意味がね、こう感じがさ、言葉として「なんとかなんだ」って主張するんではなくて、こう「なんとかなんです」っていう密かに主張しているような、彼のいう弱々しさ、抗議をするのではなくて僕はこうなんですって訴えているような感じで、しかもその「です」っていう言葉がちょっと丁寧な言葉なもんだから、逆にちょっとは皮肉に聞こえる場合もあるし、非常にこの言葉だけの意味としてもね、おもしろいと思うんですよね。リズムに合ってると思うんだけれど。

松本隆:ちょっと「なになになのだ」なんていうのはちょっと……。

渡辺武信:「~だ」というのはウッドストックでありまして。歌うほうで「です」っていうのはどうなんですか?そういうリフレインが……。

細野晴臣:えっと。「です」の専門家が。

吉見佑子:大瀧さんの「です」は残りますね。1枚目のLPも「です」ばっかり残ってますような気がしましたけど。

大瀧詠一:最初ね、松本の実は「です」がすごい多かったんです。で、最初歌ってみたらすごいぎこちなくてね、僕の当然歌い手としての至らなさは置いておいてね、すごくなんかやりにくかったんですよね。そのうちやっている間になんていうか、その日によっていろんな感じが出せるんです。「です」で。いろんなそのときによっていろんな変な感じでやれるんですね。

渡辺武信:「です」っていうのは歌い上げるときにはさ、一番おしまいで口つぶるからやりにくいでしょ。

大瀧詠一:最初そうだったんです。すごく。でも「です」がね、一番多くなってきて。「です」ってやり方によっていろんな意味にとれるっていう。例えば遠藤賢司くんの場合だと「でーすっ」って。例えば「です」にしたり「で」を伸ばして「す」にしたり「ですー」と伸ばしたりいろんなやり方があるから。そうすっと「です」っていう言葉のさっき仰ったような中間的な意味とうまく……。

渡辺武信:そうか。却って割と無声格なためにいろんなニュアンスがつけられるってね。

吉見佑子:大瀧さんの歌に関してはみんなだいたい同じようなですね、なんとなく強引な感じがしたんですけどね。

大瀧詠一:最初はまさに強引ではありましたよ。

渡辺武信:だから僕は知らないけども、彼が言った他の歌い手さんね、はっぴいえんど以外の歌い手さんはだいぶ感じが違ってくるんですね。だから僕はそういうことはすごく大事なことだと思うんです。つまり「です」っていう言葉のニュアンスを曲をつけることによって発見していくみたいなね。「です」っていうのは、あんまり歌謡曲では出てこないね。

吉見佑子:そうですね。最近ちょっとあるみたいですね。

松本隆:最近コマーシャルでもちょっと真似されたというか。

渡辺武信:そういう形でさ、日本語のね、つまりいわゆる新しいことじゃなくて、しかも単語……単語って名詞やさ、そういう具体的に物を指す言葉じゃなく語尾みたいなもののニュアンスをさ、曲をつけながらいろいろ発見していくっていうのははっぴいえんどに限らずね、すごくおもしろいことですね、やっぱりね。今の話はすごくおもしろかった。

大瀧詠一:最初のLPの場合は初めてのLPで、それで初めてなんですね、ああいうロックの歌を歌うの。だから多少僕としては暗中模索的な形だったので強引に聞こえたかもしれない。

吉見佑子:で今、弱々しさみたいなものに「です」っていうのがあるっていう風に言われたときに、あぁそうだと思ったんだけど。私は大瀧さんを通して松本くんの詩を聞いてるでしょ。するとね、またぜんぜん違うんだわね。それでさっきの「春らんまん」の詩はどうですか?

「夏なんです」のリフレイン

渡辺武信:「春らんまん」ね。

吉見佑子:ここにありますけどね。

渡辺武信:「春らんまん」。

松本隆:ちょっと冗談……。

渡辺武信:うん、これはおもしろいね。おもしろいけど僕はやっぱり今までかかった曲では僕は「夏なんです」っていうのが一番好きだな。

吉見佑子:あぁ、そうですか。それはどういうところでですか?

渡辺武信:これもまたうまく言えないけれど、リフレインがすごくうまく使われていると思うんだ。「ギンギンギラギラ」から始まってさ「日傘ぐるぐるぼくはたいくつ」っていうのはこれは非常にいい。これは曲の方もこのリフレインの部分が非常によくてね。だけど「日傘ぐるぐる」っていうのは、これまた話が飛ぶけど日傘と聞こえないね。これはやっぱり書く方の問題ね。皆さんって聞こえる。僕は退屈。皆さんはぐるぐる動き回っているけど僕はこれは退屈なんだっていう。皆さんぐるぐるって聞こえる。

細野晴臣:滑舌がわるい……。

松本隆:日本語の発音を勉強します。

吉見佑子:えー、そういうところでさっき話に出ました「春らんまん」。

自己対象化

吉見佑子:こういう風にずらーっと見てらして、いろいろ聞いてきたわけですけれども、なんかありませんか?

渡辺武信:だから僕は、全体としてはさっき言った、つまり本当は非常に攻撃的なものを含めている弱々しさみたいなものがはっぴいえんど音楽であり、松本くんの詩の特徴だと思うんですけども、その中にはやはり現在の段階では弱々しさがもう少しね、歌として僕らをもう一歩引き込むためには、もう少し言葉と音楽がぴったりくっつきすぎてる、あるいは松本くんの言いたいことと松本くんの言葉がくっついているというようなところをもうちょっとね、なんていうかな、硬い言葉で恐縮ですけど自己対象化みたいなね、見方がちらっと入ってくるともっとおかしくなるんじゃないかと、よくなるんじゃないかと思うんですね。部分的には特に今までかかった歌のなかでもリフレインの部分ではね、非常にこのいい、そういうリフレインの部分で歌全体のムードからちょっと離れてみてというようなところがあって、そういう意味では「夏なんです」のリフレインなんかはそういう効果がある程度発揮されてると思うんですけど。そういうことがもっとあってもいいんじゃないかなと思うんです。

松本隆:はい。

吉見佑子:はいって素直なお答えが出ましたけども。

渡辺武信:やー、もうお説教したみたいになっちゃった。恐縮です。

吉見佑子:これでまた3枚目のLPの変化が期待できると思いますので。とにかく今2枚目のLPを今日はご紹介しました。はっぴいえんどの皆さん、そして詩人の渡辺さん、どうもありがとうございました。

不明:さよなら。

 

※最後の「さよなら」は話の流れからすると松本隆だと思うが松本隆の声ではないような気がする。